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更新日: 2021/07/19

光と陰

光と陰の写真

新型コロナウィルス感染症防止の為、緊急事態宣言が発令されて以降の撮影はあらゆる場面で気を遣いながらのロケとなった。通常では道路情報などを表示している電光式の表示板にも、不要不急な外出の自粛を促すメッセージが表され、それを目にする度に仕事とはいうものの、東京都外の場所へ赴くことに幾許かの後ろめたさを覚えつつロケに向かったものである。それも人出のある時間帯に出向くのはいかに自然の中とはいっても、やはり遠慮しなければと思うと、勢い夜間の行動とならざるを得ない。そしてゴールデンウィークには、東京郊外の自然が豊かな地域でも遂に全ての駐車場が閉鎖され、毎週続けていたロケが初めて途切れてしまうことになってしまったのである。

この稿を書いている現在は「東京アラート」も解除され、街に人の流れが戻ってきてはいるが、まだまだ都内ナンバーの車で他県へ出るのは少々、気が引ける。来られる方だって迷惑に思うだろうと考えると、どうしても人と会う可能性の低い「夜間行動」のロケになってしまうのである。

午前1時、2時に現場に到着し、車を停めてライトを消す。一瞬にして闇の世界に呑み込まれる。特に月も星もない夜の暗さは、車内の明るさに慣れた目には身体中を押し潰されるほどの圧迫感がある。〝闇の濃さ〟とか〝厚い闇〟という言葉の意味が実感される瞬間である。当に〝鼻を摘まれても判らない〟ほどの暗さだ。都会での生活では決して得られない感覚だろう。とにかくただひたすらに暗いのだ。慣れないうちは、ライトを点けて歩いていてふと後ろを振り返った時の闇の濃さに、大げさに言えば恐怖すら感じたものであるが、慣れとは大したもので、そのうちに都会では味わうことの出来ない〝闇の濃さ〟に、じっくり浸る余裕も生まれてきたのである。そして満月の時にはその明るさに感動する。月の光が蒼い、ということを実際に経験して、昔むかしの菅原都々子さんの歌謡曲に「月がとっても青いから」というのがあったっけ、と関連のありそうな、なさそうな事を思い、独り忍び笑いをしながら撮影ポイントへ向かったりもするのである。

夜間ロケでは小型LED照明を持参して歩くのだが、最低の光量にしていても十分すぎるくらいの輝度がある。何かの拍子に光源をまともに見てしまうと、瞬間、他のものが全く見えなくなるほどだ。光源を真下か後方へ向けながら歩いていても、自分の影を見ることになる。光があれば陰が出来るのは至極当たり前のことなのだが、この〝自分の影を見る〟ということは心理的に意外な効果があることに最近気がついた。漆黒の山道を無灯で歩くような危険なことは勿論あり得ないことだが、あくまでも仮定の話として、自分の影を見ることなく歩くとすればどれほど恐ろしいかと思うのである。つまり、自分の影を見るということは〝自分が確かにそこに存在している〟という事実を自分自身が確認できているために安心していられるのだ、と考えられるのではないだろうか。微かな星明りでも目が慣れて来さえすれば、影を見ることができる。ユングの影(シャドウ)の話を持ち出すほどの事ではないが、照明が映し出す自分の影に自分の存在を見ているという実感があるのは事実である。自分の足先さえ見えない真の闇の中で、照明に映し出された影に自分の存在を単に確認するというだけのことであり、ユングの言う〝生きられなかった自分〟を見る、という意味ではない。夜間の山道でそんなことまで考えていたら危なくて仕方がない。

光が当たって陰が出来る。物理的にも当たり前なこの事実が実に美しいものである事を感じたロケがあった。それは神奈川県・真鶴半島に行った折のことだ。半島の先端の、海岸に降りる場所まで曲がりくねった道をしばらく進むことになる。道の両側は太い樹木の森になっているのだが、その樹木は海からの風によるものなのか、元々そういう種類なのか理由はよく判らないが、直立してはおらず幹が曲線を描いているのである。初めて通る曲がりくねった道なので、安全のためにヘッドライトをビーム(上向き)にして走行していると、曲線の幹に当たったビームのヘッドライトで生み出された陰影が実に幻想的で美しかったのだ。ぜひこの様子を映像として収めたいと思いながら、明るくなっての帰路に同じ道路を通って驚いた。そこには巨木ではあるが、普通の樹木が茂っている風景があるだけだったのだ。あの幻想的な空気感は光と陰とが創り出したものだったのである。因みにこの時、ライトの端に「魚・・保安林」という看板をチラリと見たのだが、森に〝魚〟は無いだろうと単に見間違いだと思っていたらそうではなかった。「魚つき保安林」という看板だったのである。「魚つき保安林」とは、魚群の誘致・漁場保全を目的として育てられた森林のことだそうで、枯葉の養分やミネラル類を含んだ水が海に流れ込み、プランクトンを発生させたり海水温度を一定に保つ効果があるとのことなのだ。さらにこの森林は天然記念物指定を受けているということも判明した。その意味では大した森林だったのである。

夜間ロケで味わう〝漆黒の闇〟は、昼間とは全く違う世界を見せてくれる。闇の中のささやかな光が余分なものを排除して、陰の美しさを感じさせるからだ。撮影時以外では陰を生み出すための光、でもある。月の無い夜に山道を歩くとき、または星明り、蒼い月光の下で道を進むとき、150年か200年くらい前の時代に街道を旅する人々が提灯を持ってどんな気持ちで歩いていたのだろうか、と思いをはせる。満月の夜などの月明かりをきっと有り難いと思ったことだろう。その有り難さは現代人には想像も出来ないことだと思う。真の闇に身を置く機会があまりない現代だからこそ、闇の中に僅かな光が生み出す〝陰〟というものに美を感じるのかも知れない。昔の人は、仄かな提灯の灯りが生み出した陰に怯えることはあっても、美しいと思うことはなかったのかしら。否、提灯時代には、陰と光、というものに現代人以上の感覚を持っていたと考えられるのかも知れないと思う。必要以上の明るさが無かったからこそ、そこに様々な想いや思想が生まれる余地があったと考える方が自然なような気がする。人間というものは兎角、色々なものが見え過ぎると宜しくない場合が、まま、あるものなのだから。

初稿: 2020/06/14

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