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更新日: 2021/07/19

通過儀礼

通過儀礼の写真

人間社会には通過儀礼というものがある。人間は生物としての物理的現象として母胎を離れた瞬間から一つの個体としての急激な成長を続け、徐々にその成長速度は緩やかとなり、やがては全ての機能を停止する。まことに自然の摂理に則った、整然とした一連の流れである。その物理的現象の流れの中で、節目ともいうべき折々に「はい、この時点から新たな局面となります」とでも言える儀式というものを設け、その変化を自他ともに属する団体、社会が認知するという手段を人間は持つ。この手段が通過儀礼ということなのであるが、これは人間が人間たる所以というか、精神活動の分量が他の生き物とは飛躍的に多いというか、兎に角、他の生物とは一線を画す部分といえるだろう。〝局面〟という言葉を先ほど使ったが、通過儀礼には3つの局面がある、と言われている。つまり、S(セパレーション、separation― 離別)、T(トランジション、transition―過渡期)、I(インテグレーション、integration―統合)の3つのことである。「S」とはそれまで過ごしていた環境・状況からの離別であり、「I」では直前の状態から新たな状態となって従来の環境へ戻って行く(従来の環境への再統合ともいえる)。その2つをつなぐものが「T」の過渡期という訳で、この時点が儀礼・儀式の行われる時期となるのである。

様々な通過儀礼が私たちの一生の中に存在するが、代表的なもの、といえば誕生、結婚、葬儀ということになろう。自分の経験ということで言えば、誕生については記憶にないことなので当時、どんなことが行われたのか知る由もないが、数多く存在する通過儀礼の中で一番、心に永くそして重く残っているのは葬儀ということになる。人間を長くやっていると、嫌が上にも「送る」ということの経験が増えてくる。人生とは、人を送る回数が増えて行くことなのではないか、と思えるくらいである。思えば様々な「送る」儀式を経験してきたものである。

身内・親戚の葬儀にあたっては、当然のことながら「家の宗派」によって行われることとなる。私自身は特段、敬虔な仏教信徒という訳ではないが仏教というものの、人間に対する考え方、ものの見方、生き方への対処の仕方、というものを好きである。そして仏教における「人を送る」という行為にあたっての処し方の巧みさには美があると思う。仏教で言われる四苦八苦のうち、残された者が味わわなければならない最大の「苦」は「愛別離苦」ということになる。

精神・身体的にも極限状態の中での通夜・告別式。その後に続く初七日、二七日、三七日から七七忌と言われる四十九日の法要を経て、いよいよ故人そのものであるお骨を埋葬する百ヶ日の納骨式。その順序と時間の経過の中で、残された者たちの悲しみと苦しみは次第に救われていくのである。百ヶ日の祈りの中での哀しみは、通夜・告別式の時の悲しみと祈りよりも、その質がより高度に透明に変化されているようだ。その巧みな順序は、諦観という人間の智慧を呼び起こし、それによって多少なりとも哀しみの色合いが透明化されていくのだと思う。他の宗教、キリスト教や神道などの葬儀にも参列したことがあるが、それらはその宗派の論理によって、同じような順序を踏んでゆくことにより、残された者たちの心を救ってゆくのであろう。人間にとっての大きな出来事である誕生と終焉とは、そして特に終焉についての通過儀礼である葬儀の意義や意味は、まさにそこにあるのではないだろうか。

若い頃には、儀式・儀礼について特別な感覚を持たずに過ごしてきたものだった。特別に反体制的な人間であったわけではないが、結婚式は結婚式、葬儀は葬儀、として一つの単なる「カタチ」として捉えていた部分があったと言わざるを得ない。いわば、通過儀礼は単に儀礼としてしか認識していなかったのである。何事も経験を積む、ということは重要なことだと思う。人間を長くやって、数多く人を送ることを経験してきたお陰でやっと今頃になってそれぞれの「儀礼」について考えるようになれたのかも知れない。なんとも馬齢を重ねてきたもので、お粗末なことである。それだけに現代の結婚式や葬儀に対する、とりわけ結婚式に対する商業主義的なやり方が、ヘンに目につくようになってきた。本屋にはプロポーズされた時点で読む雑誌、結婚式場を決める段階で読む雑誌、果ては式における〝心に残る〟演出方法などなど、若い女性たちにとってはこの上なく興味深く、男性諸氏にはこれほど面倒なことは無いであろう雑誌が溢れている。未婚の男子を持つ身としては、空恐ろしい現象である。

冒頭に「人間社会には」という書き方で、通過儀礼についてそれは人間が人間たる所以、と記してきた。突然ではあるが、今それを若干、訂正しなければならない。なぜならば、通過儀礼は人間社会だけに存在するものでは無かったのではないかということを感じる経験をしたからである。

数日前、約1ヶ月ぶりくらいに撮影ロケで青木ヶ原樹海を訪ねた。コロナ感染防止の一環で「夜間行動」となり、深夜の到着であったのだがその夜は大変に静かな夜だった。撮影対象を探しながら遊歩道を進み、やがて空が白んで来て夜明けがやってくる。生憎と薄陽が時折射し込んでくる薄曇りの日であったのだが、周囲の様子が前回訪れたときとは全く違っていることに驚いたのである。

樹木には若葉の時期を終えたばかりの樹葉が緑を濃くしつつあり、地上には多くの灌木が生い茂り、草丈は急激に高くなっている。目に入る全てのものが再生の時を迎え、成長を続けている。夜間はあれだけ静かだった樹海は鳥やカエルと思しき鳴き声で満ち満ち、樹海全体が静から動の世界へと変貌していたのである。

今、目に見えている樹葉は昨年の葉では無い。今、耳にしている鳴き声は全てが昨年の生き物たちからのものでは無い。しかし、植物も生き物たちも人間社会と同様に生老病死の苦を抱え、あるものは枯死して無残な倒木となり、あるものは樹幹に虚ろな洞を作りその命を終える時を待っている。そして樹林全体は今年の芽吹きを迎えて今、緑に染まっているのである。樹木は、生き物たちは無論、通過儀礼の意識などは持たない。自然の摂理に従順に従っているだけなのである。だが、この冬枯れの後に迎えた再生の時こそ、樹木たちの、生き物たちの「通過儀礼」なのでは無いだろうか。

「S」である離別の時期(落葉や動物の冬ごもりなど)を過ぎ、「I」であるの統合の時期(再び緑滴る樹海となる)までの過渡期である「T」の今の季節こそ、樹海のあらゆる生き物たちの「通過儀礼」の時だったのではないだろうか。

そのような時期に樹海を訪れ、通過儀礼とは一つの具体的な儀式を意識して持つにしろ、持たないにしろ、大きな意味ではこの地球上に生を受けているもの全てが経験するものであり、人間社会もそれに漏れるものでは無いという考え方をするようになった。

その日。樹海の再生を喜びつつ、生き物全ての「通過儀礼」についての思いを馳せ、人間だけに限ったことではないのかも知れないと、少し考えを改めながら自宅へ向かってハンドルを切っていた。

初稿: 2020/06/21

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