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更新日: 2021/08/24

西域

西域の写真

渭城朝雨浥軽塵(渭城の朝雨軽塵を浥ほす)[いじょうのちょううけいじんをうるおす]
客舎青青柳色新(客舎青青柳色新たなり)[きゃくしゃせいせいりゅうしょくあらたなり]
勧君更尽一杯酒(君に勧む更に尽くせ一杯の酒)[きみにすすむさらにつくせいっぱいのさけ]
西出陽関無故人(西の方陽関を出づれば故人無からん)[にしのかたようかんをいずればこじん
                         なからん]
                            [王維:〝送元二使安西〟 より]


書き出しからの唐突な漢詩(七言絶句)であるが、西域(シルクロード)について語るにはその出発点より行うのが筋だと思う。西域。「さいいき」または「せいいき」。西はイラン、イラク、更にはローマ・ギリシアから東は奈良の正倉院まで、人と物と文化とが行き交った長い長い道。往来する文化は、その途中の国々で根付き、熟成され独自のものとなって行った。そして独特の発展を遂げて絢爛たる華を開き、また滅びを見たものも決して少なくは無い。  この詩にある「渭城」は現在の咸陽市に近い西にあった。西安は往古の長安である。黄河の支流である渭水を臨む渭城は、古来、都を離れ遠く西へ旅立つ人を見送る場所であった。題の〝送元二使安西〟は、遠く安西へ赴く元という親しい友人を送る、という意味である。その宿場の旅籠からは、折からの朝の雨に洗われた緑豊かな柳の木が見える。別れ難く、最後の別れの盃を「さあもう一杯どうだ」と友人に勧める。西域に通じる陽関(関所)を超えてしまえば、もう知人・友人は誰も居ない孤独の旅を続ける友人への惜別の情を歌った詩である。作者の王維は、李白・杜甫と同時代の人だが、若くして科挙に合格した役人でもあったので、この〝友人〟は安西に赴任する同僚だったのかも知れない。

この安西は、前漢の武帝によって定められた有名な河西回廊の四郡、東から武威・張掖・酒泉・敦煌の、最も敦煌寄りの街であり、ここは既に沙漠の中。長安からは悠に900キロ以上の隔たりがあり、漢族以外にも多くの民族が居住する地域である。この河西回廊が中国では西域の東端に当たり、東西交流の上での要衝であって、西域と通ずる交通要路だったのである。

さて、この河西回廊最西端の敦煌から、西へと向かうルートが北と南に別れる。内モンゴル高原へ向かう天山南路と、タリム盆地を隔てて横たわる崑崙山脈の北側を通る西域南道である。そのほかに高昌(トルファン)からジュンガル盆地(モンゴル内)へ向かう天山北路と合わせて3つのルートが主要なものであった。天山南路と西域南道はタクラマカン沙漠のオアシスをつなぐルートである。この沙漠は、4世紀末から5世紀初めにかけてインドへ旅した僧・法顕が「上に飛鳥なく、下に走獣なし。ただ屍人の枯骨を以って標識となす」と表した〝死の沙の海〟である。この「サバク」は〝砂漠〟ではない。〝沙漠〟である。童謡「月の沙漠」はここをイメージしたのであろうか。王子様と王女様が揺られるラクダは、ヒトコブラクダ(アラビアのラクダ)より中央アジアのフタコブラクダの方が雰囲気がある。何よりフタコブラクダのコブの間の方が乗りやすいではないか。一方、隊商の荷物を運ぶラクダはヒトコブラクダのイメージだ。個人的な勝手な思い込みであるが、不思議なものである。

この紀元前2世紀には存在していたと言う〝死の沙の道〟をどれだけの人や文物が往来してきただろうか。そしてこれらのルートに在ったオアシス都市の一つひとつに、どれだけの物語が現れては伝えられ、そして消えていったのだろうか。天山南路の要衝・亀茲(クチャ)ではクチャ楽と呼ばれた音楽が、高昌(トルファン)では数多くの果物、特にブドウが、西域南道の于闐(ホータン)の玉が、それぞれの民族に支えられた文化とともに東へ、そして西へと伝えられて行ったのである。ホータン王へ嫁ぐ中国の女性が、当時国外持ち出し禁止であった桑の種と蚕を冠に隠して絹織物を西へ伝えたという逸話を遥かに思う。

かの「西遊記」(16世紀頃に中国で大成した、口語体のいわば大衆小説)や、イギリスのオーレル・スタイン、日本の大谷探検隊の踏査などで一般にも有名になった「西域」は、東西文明の偉大な交流の舞台であった。しかしそれと同時に、侵略の為の戦いと政治と異教徒との争いに彩られた、興隆と滅亡の舞台でもあったのである。

有名な万里の長城は秦の始皇帝が中国統一後、匈奴(遊牧騎馬民族)勢力を追い払ったのちに匈奴の南下を防ぐ為建設したものだが、その後、前漢・高祖(劉邦)が匈奴に敗れ、匈奴帝国が形成される。更に、時代が下って前漢・武帝が対匈奴強行政策を取り、大軍を発して徐々に匈奴を圧迫、西域へと進出して行った。冒頭に紹介した河西回廊はこの匈奴との争いの後に漢民族によって建設された、西域経営のための橋頭堡となるオアシス都市だったのである。その戦いにおいて匈奴を東西から挟み撃ちにするため、タクラマカン沙漠を超えた西にある大国「大月氏」国へ張騫を派遣する。なんと張騫が中国へ戻ってくるまでに13年の月日を要したのである。なんとも気の長い事である。徒歩かラクダでの沙漠の旅を思えば時間がかかることは仕方ないのだが、張騫は旅の途中で匈奴に捕まり、そこから脱出して任務を果たした往復なのであった。しかし張騫がもたらした匈奴族の中での生活、往復途上に見聞した各国での文化・文物、そして中原(漢民族の国、つまり中国)から伝わった絹は、それら中央アジアの地域で珍重されたのである。後にシルクロードと呼ばれる交易路は、まさに侵略と戦いの上に生まれたと言えるのではないだろうか。

人類の歴史において文化・文物の交流と戦いは、密接な関係を持っている。造像の観念を持っていなかったインド地方に仏像が作られるようになったのは、アレキサンダーの東征によりインド地方に残ったギリシア人たちが起源である。戦いの歴史があって新しい文明や文化が芽生えるというのは、思えば皮肉なことだ。人はいつの世に於いても、常に欲望に呑み込まれ、自国の領土拡大を目指し、果てしないと思えるほどの戦いの歴史を重ねてゆく。人間の歴史は戦さの上に成り立つものなのだろうか。

西域を歩んできた文物や思想は奈良を終着駅とした。奈良・薬師寺の薬師如来台座に浮き彫りされた葡萄唐草文様を見たのは中学生の時だった。私の西域への思慕はその時から始まっていて、未だ熄むことがない。そして訪ねたかった、観たかった遺跡の幾つかは既に「人間の手」で破壊されてしまっている。この破壊の後にも新たな「文化」は果たして訪れてくるのだろうか。その想いが西域への憧憬を更に募らせるのである。

初稿: 2020/06/28

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