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更新日: 2021/08/08

てくてく

てくてくの写真

ある本を読んでいたら「山手胸黒 下町襟黒」と言う言葉に出会った。東京都の23区は西側がいわゆる山の手と言われる高台になっており、東側に向かって低地となり下町と言いならわされている。まだまだ通勤のための電車やバスなどのなかった明治や大正の時代には、勤めのために東西の線上をてくてく歩いて移動する人たちが多かったのだそうだ。山の手の住民は太陽の昇ってくる東へ向かっててくてく、下町の住人は太陽を背にして西へてくてく毎朝毎朝歩く、という事になる。そうすると何が起こるかというに、毎朝太陽に向かって歩く山の手の人々は顔や胸を太陽に晒すことになって身体の前面が日焼けで黒くなり、反対に西の山の手側へ向かう下町の人々は、背中に太陽を浴びながら毎朝歩くので、襟足が日焼けして黒くなる、という事になる。「山の手の胸黒 下町の襟黒」とも言うそうだが、当時、勤勉な働き者という証左の言葉だったのである。大量輸送の通勤電車やバスが出来上がっている現代人には到底想像のつかない事だが、それらの無い時代には頼りになるのは自分の足しかない訳で、勤め先に向かうためには歩くしかない。勢い、太陽の昇る時間にはもう家を出て、東から西へ、西から東へとてくてく歩く。今は郊外から都心へ通勤する人たちは太陽の位置とは無関係に、毎朝長時間通勤ラッシュで揉みくちゃにされるわけで、どちらにしても通勤の苦労というものはついて回るものだと思う。

大量輸送というものが発達していなかった時代、多分、大正時代の終わりころになるのだろうか、その辺りの鉄道輸送などの歴史的な事については調べていないのでよく分からないが、昔の人たちは実に良く歩いたものだったと思う。歩く、ということが人間の生活にというか、人間の「行為」として、現代とは比較にならないほどの意味と位置を占めていたのではないだろうか。

兎に角、人が何かの理由で移動するためには歩くしかない時代、明治・江戸・戦国それ以前には人は歩きに歩いていた。それがたとえ物見遊山の旅であろうと、重大な任務を帯びる旅であろうと、移動するためには歩くことが基本だったのである。もちろん、駕籠や馬での移動もあったろう。それにしてもやはり歩くことが大きな比率を占めていたことは想像に難くない。

現代では新幹線で片道約2時間ほどで東京から京都へ着くことができる。江戸時代までは京都に御所があった関係で上り下りが反対になるが、江戸から京都へ下る東海道の旅は徒歩である。あの広重の浮世絵で有名な五十三次を何日で踏破するかといえば、約14日前後が平均的な日数だったようだ。約2週間である。しかも途中には箱根の山越えがある、雨が続けば川止めがある。そんな時には川の渡しが再開出来るまで待たねばならないので、更に旅程は長くなる。庶民も参勤交代の殿様も(これは駕籠であるが、駕籠かきは歩く)、武士も、商人も、浪人も、弥次さん喜多さんも、みんなてくてく歩いていたのである。

歩く、ということが人間の行為の中で大きな位置を占めていると書いたが、その〝歩く〟というそのこと自体を商売にしていた人たちもいた。子どもの頃に聞いた話でうろ覚えの事だったので調べてみたら、あったあった、ありました、「すたすた坊主」。子供のころは漠然と、人の家の門口に立って金銭を乞う、いわゆる「乞食坊主」(こつじき、では無く、こじき)、だったと思っていたが、このたび調べたところによると、実は「願人坊主」の事だということが分かった。人から依頼を受けて水垢離などを身代わりしてあげたり、代参したりして、その代償を得ることを生業としていた人たちである。そして、願人坊主の名前が出てきて、次々と連想が広がった。その起源は平安時代に遡ると言われている「傀儡子」(くぐつ)や、戦終戦後まで存在していたという「山窩」(サンカ)のこと。

なかでも傀儡子については興味ある事柄が多い。その起源は判然とせず様々な見解があるようだが、私が一番好きなのは西ヨーロッパから、はるか中国・朝鮮半島を経て日本に移住してきたというジプシー説である。日本に入って来る頃には何代もの混血の末、アジア人の血が濃くなっていたのであろうが、女性は彫りが深くて美人が多かったようだ。傀儡子の本業は芸能、大道芸人である。音楽や踊り、手品などを大道芸として披露しながら、日本国中を旅する漂泊の人々・「道々の輩」だ。彼らは定住はしない。そして通行手形とも無関係な「往来勝手」なのである。定住しないので領主を持たない「上ナシ」の人々でもある。彼らが主と仰ぐのは天皇ただ一人であるという。小説の中に出て来る傀儡子たちの踊りは中央アジアの〝胡旋舞〟(こせんぶ)を彷彿とさせる。西ヨーロッパからの移動民族が長い移動の末、アジア人、特に朝鮮民族の血を濃くして日本へ渡って来た、という仮説である。

余談ながら、私の好きな時代小説作家・隆慶一郎氏には傀儡子が登場する作品が多いが、氏の小説家としての想像力は素晴らしい。氏によれば、江戸に吉原を創建した総名主・庄司甚右衛門は傀儡子族であることになっているのだが、氏の時代考証に基づいた小説家としての想像力は、恰もそうもありなん、と思わせる筋立てになっていて誠に楽しい。

井上堯之の作曲した「流浪の民」が挿入曲となっている「瀬振り物語」という映画が山窩の話なので、井上堯之を知る方々にはお馴染みのことと思う。「瀬振り物語」は1985年公開の、中島貞夫監督・萩原健一主演の映画であるが、脚本の元となっているのが、山窩小説を多く発表した三角寛氏の作品である。三角氏によれば山窩は山中で箕やささらなどを作り、それらを山を下って村落や町に行商しにいったり、修繕をしたりして生活している集団で、厳しい掟があり、独特の言葉や文字を使うということになっており、氏の小説の末尾に山窩言葉一覧が付属しているものもあるが、氏の山窩小説自体については完全なフィクションであると本人も家族も証言しているので、この映画を以って「山窩」の実態について語る事は出来ないと思う。一つの〝おはなし〟として楽しむべきであろう。

実際の山窩についてはその人口などのはっきりとた統計的調査はされておらず、推定するしかないようである。しかし少なくとも明治期までの警察・行政関係の公文書にははっきりと「山窩」と記されていたようだ。但し、村落の住民に対する犯罪者または犯罪予備軍・要指導対象者としての存在であり、その起源がどのようなものであったかということは未だ、不明のようである。

このところ「歩く」ことが多い。長い梅雨で自転車が使えないという事もあるのだが、山道・ハイキングロード、それも急な坂をてくてく歩く。その「歩く行為」をしていると、昔々の人たちの事を思うのである。現代人に何倍かする脚力を以って、1日に数十キロを歩いて、京へ行ったり江戸へ来たりしていた人たち。日本中を歩き回った伊能忠敬やその弟子である間宮林蔵。参勤交代の大名、戦国の武将やその軍団。傀儡子などの旅芸人。昔むかしの人たちは、確かに「歩く」ということがその人生にとって大きな比率を占めていたのだ。てくてく歩いて2週間、つまり14日かかった東海道を2時間で移動してしまう現代は、余った13日と22時間というものを無為に過ごしてしまうにはなんとも勿体無いような気持ちになってくるが、今はむかし、という事なのだろう。

初稿: 2020/07/26

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